『桜の贄』
 
 
 
 
私が生まれたのは、かつて弾圧から逃れた隠れキリシタンたちが住んだとされる山奥の村。
といっても、今ではキリシタンとして生きるものは皆無に近い。
ただ、長年の伝統というか、名残というか・・・生まれた際には、実の名とはべつに所謂『洗礼名』のような二つ名を持つことが風習となっていた。
 
そんな私につけられた二つ名は『ルキア』だった。やはりキリシタンの聖人の名だという。
 
私は・・・実は本名を知らない。
それというのは、この世に生れ落ちたときから、実の両親が既にいなかったのだ。
私は、村はずれの六地蔵を模したかつての聖人像の前に置き去りにされていたのだ、そうだ。
この村に生まれた、というのは少々語弊があるのだが、それでも此処は、やはり・・・生まれ育った場所だ、と思える。
 
この村では、両親や血のつながりのある人間しか『本名』をつけることが出来ないとされていた。
『本名』は親族が与えるもの、『二つ名』はそれ以外の人間が与えるもの、とされていたから。
村を取りまとめる長者様のお屋敷に拾われ、私はそのしきたりに従って『二つ名』のみをつけられた。
無論、私は普通に親のある子どもらとは違って常に『二つ名』で呼ばれていたのである。
もっとも、他の土地のものに怪しまれぬように・・・と、一応は、『ルキア』の意味から『お光』という名を持ってはいた。
村を出て遠出をするときなどは、この『お光』を名乗ること、と長者様には教えられた。
・・・滅多に名乗ることの無い名前に違和感を持ち、『ルキア』であることが私には自然なことだった。
 
そして、これから先も・・・その名を名乗ることが出来るのだと思っていた。
平凡で繰り返される、けれども穏やかな、そんな隠れ里の毎日を。
温和で懐の広い、村の皆から尊敬される長者様に実の娘のように育てて頂き、
いつかは恩返しをお傍でできたなら・・・そう、願っていた。
 
 
 
それは、私が15になって暫くのこと。
蝋梅が咲き終わり、漸く梅の花が開き始めるか否かの頃だったと思う。
 
長者様が、私に山の向こうの裕福な家の子息との縁談を持ってきた。
以前この屋敷にいらっしゃった客人の一人で、私を見かけた際に気に入ってくださったのだという。
長者様はにこやかに笑って、
「お前に親がいないことも、全て承知の上であちらはぜひともお前を迎えたい、と仰ってくださっているんだよ。」と
私に仰るので、それ以上何も言えなかった・・・。
 
この村にいたい、この里で暮らしたい、ここで生きて、死んでいきたい・・・。
私を育ててくれた、この土地で・・・。
 
けれど、その思いは胸の底に仕舞っておくことにした。
今まで慈しんでくださった長者様に迷惑を掛けたくなかったし、何より私が花嫁となって立派な御家に嫁ぐことを喜んでくださっている。
・・・これも立派な恩返しだろう、そう思ったから。
 
だから、私はそっと・・・誰にも気付かれぬ場所で、一人で泣いて・・・心を落ち着けようとしていた。
 
 
 
時を同じくして・・・
 
その頃、村では不思議なことが起こり始めていた。
梅が咲き終わり、桃が咲き始めるはずなのだが・・・一向にそれ以上、季節が進む気配が無いのだ。
庭の水仙も開かず、山の斜面に生えるはずのふきのとうも見当たらない。
春を告げる鳥の姿も何処にも見当たらず、風も冬の・・・頬を打つような冷たい風のまま。
 
何より皆が驚き恐れたのは、ご神木である桜に一向に花が付かないこと。
つぼみが硬く閉じていて、膨らむ様子が一向に無いのだ。
この桜は、必ず他の桜たちの先陣を切って最初に花開き・・・この奥深き村に春を告げてくれるのだ。
・・・それ故に大事にされてきた、それ故のご神木なのだが。
 
かつての隠れキリシタン達であれば、唯一の神に祈りを捧げたのであろうけれど・・・
もはや殆どがキリシタンとしての信仰を失っているこの村では、他の村と同じように占いや祈祷が行われていた。
そして・・・あるご神託がもたらされた。
 
『此れは天変地異の前触れなり、ご神木への生贄を一人捧げよ。
 御神木が所望する生贄には、いずれ御印がもたらされるだろう。』
 
  
 
私はある日、村の鎮守の森の祠に・・・長者様らと共に、遅い春の訪れを待たずに花嫁として山向こうの家に嫁ぐことを報告していた。
心の中は複雑だったけれども・・・それでも、私を慈しみ育ててくれた長者様や、村の皆が喜んでくれる姿を見れば・・・
やはり口には出来なかった。
自分の愚かしく浅はかな思いは、心の中にそっと留めていこう、そう決めていた。
 
が、
 
「あ・・・花びら・・・・」
 
まだ今年は一輪も開かないはずの桜の花弁が何処からともなく舞い降りてきて、私の頬を撫で、そして私の手のひらの中に納まった。
そして、張り付いたように花弁は落ちることがなかった。
それどころか・・・退けようとすればするほど、何処からとも無く花弁が舞い降りてきては、私の髪や腕、頬にぴたりと張り付いてしまう。
更には、まるで私の周りだけ、春が来ているかのように・・・暖かで、どこか切なさも感じる空気があって。
 
「・・・これは・・・・」
 
そして、何よりも確定的だったのは・・・
長者様のお屋敷に植えられた桜だけが、戻ったら満開になっていたことだった。
 
 
 
それからの事は、実はあまり覚えていない。
自分の身に起きたことに現実味が無くて、まるで自分と外の世界が切り離されたかのように感じられたから。
でも、それは『ご神託』に衝撃を受けて心を痛めたからではなくて、
既に、私の心が・・・ある一つの思いをおのずと導き出していたからだと思う。
 
それでも・・・うつろげに覚えているのは、
嫁入りが決まっている娘を生贄になど出せないと仰る長者様と、
神託が降りた以上はたとえ今日明日にでも嫁に行くような娘であろうと神託にそむく事は許されぬと云う村人達。
・・・長引く冬を、遅すぎる春を思えば、その気持はもっともだろう。
勿論、村の皆も生贄など出したくない、というのが本音である事は、ひしひしと伝わってくる。
皆、其々に辛いのだ・・・。
 
「長者様、私は・・・」
 
 
 
せめて旅立つときくらいは、と豪華な花嫁衣裳を着せられ、化粧を施され、
せめて苦しまぬように・・・と、神酒に酔うことにより意識を混濁させられた上で、
祝詞が唱えられる中、手足を縛られた私は神木のうろに閉じ込められた。
目を真っ赤にした長者様からは、
「神様の許へお嫁に行くのだと思っておくれ。お前の事も山の神として大事に末永くお祭りするから。
これからはこのご神木を私はお前だと思うから・・・」と。
 
薄れ行く意識の中で、私は・・・どこか、安堵に満ちたものを感じていた。
私が望んだように、この村で生まれ、育ち、生き・・・そして・・・・・・
 
このような形であっても・・・皆の傍に、いられることが許された気がして。
 
 
 
 
「う・・・」
 
目が覚めると、其処は暖かで上物の布団の上。
ゆっくりと身を起こせば・・・とても静かな、どこかの高貴な家の内部のようだった。
 
自分を縛っていた縄も、重い花嫁衣裳もなくなっていた。
まるで、生贄になったことさえも夢のように感じられた。
一応、自分の頬を軽くつねってみるが、それなりに痛むので夢ではない、と。
 
ふと辺りを見回すと、此方に背を向けて縁側から外を見つめている、長く黒く、美しい黒髪の男が一人だけ。
 ・・・初めて見る姿であった。
 
眼が覚めてからしばらくは、密かに嫁ぎ先とされていた家の者に助けられたのだろうか、と思った。
だが、嫁ぎ先の家の者であれば、以前長者様のお屋敷にこられたことがあると伺っていたし、私も顔を何度か見かけたことがあるはず。
その記憶の中には、そのような後姿を持つものは誰もいない。
そして不思議なことに、その者以外に誰一人の気配も感じないのだ。
 
「目が覚めたか。」
 
低く、凛とした声が響く。
 
「あ、あの・・・此処は・・・」
「私の、屋敷だ」
 
そういって此方を振り向いたその顔に、はっと息を飲んだまま、私は呼吸をすることを忘れてしまっていた。
それほどまでに・・・美しかった。まるで人形のように。
・・・いや、人ではない・・・何か美しすぎる、得体の知れない・・・・
 
「如何した。」
「いえ、その・・・」
「手短に疾くと申せ。」
「・・・あの・・・お、お助けてくださり、有難うございます・・・」
「私は、お前を助けてなどいない。」
 
そういって、また縁側に顔を向けられてしまった。
その表情は、どこかやるせないような、何か憂いに満ちたものがあって。
 
助けてなどいない、とつっけんどんに返されても・・・
今理解できる事実として、私としてはこの人に助けていただいたのだろう、ということに変わりは無いわけである。
何せ、生贄とされた村娘を、このようなお屋敷にかくまってくださっているのだから。
 
「あの、私に何かできる事はないでしょうか?助けていただいたお礼を」
「云ったはずだ、私はお前を助けてなどいない。」
「しかし、」
「故に、礼など無用だ。余計なことをするな。」
 
ぴしゃりと言われて、私は次に発すべき言葉を見出せないでいた。
 
「それから、この屋敷からは一歩も出ぬこと。」
「え?」
「・・・色々とあった後だろう。今お前が出て行っては、村人が黙っては居るまい。」
「あ・・・」
「お前に出来ることは、此処で息を潜めて過ごすことくらいであろうな。」
 
確かに・・・
自分が生贄として扱われている以上、このようにして助けられたところで直ぐに出て行っては、人々の目に触れる可能性も高かろうとは思う。
そうなればから逃げ出したと分かってしまい、それこそ今度は命がないだろう・・・。
折角、このように助けられたのだから・・・。
 
「ですが、私はずっと此処にいるだけでは・・・」
「ならば、好きにするがよい。
但し、食事だけはお前には任せられぬが故、それ以外のことであれば好きにして構わぬ。」
「しかし、恐らく私はこのお屋敷にいらっしゃるでしょう方々の中でも卑しい身の上でそれこそ炊事とか掃除とか・・・」
「二言は云わぬ。聞けぬなら、」
「い、いえ・・・仰るとおりに致します。」
 
確かに私は必ずしも料理の腕はよくないほうだったが(長者様はそれでも、実の娘が作ってくれた食事を食べるかのように
『おいしいぞ』と仰ってくださった)、何故食事だけが許されぬのか、その時はわからなかった。
だが、この家の主がそれでよいというならば・・・
それでもできる事はないかと考え、屋敷の主が立ち去ってから、『では掃除をしよう』などと思ったのだが、
縁側は鏡のように磨かれ、部屋には塵一つないほどの清浄な空間が只管に広がっているだけだった。
・・・つまり、本当に何もすることがないのだ。
 
 
「あ、あの・・・」
「何だ。」
「大変申し上げにくいのですが、お役に立つ事は無いかと考え、掃除などをしようかと思ったのですが、
とてもお屋敷が綺麗に磨き上げられていて・・・」
「掃除をする場所も無いか。」
「え、あ・・・はい・・・」
 
私は、この時・・・はじめて、この方の表情が少しだけ緩むのを見た。
声色も、少しだけ・・・ほんの少しだけ、穏やかなものが混じっていて。
 
「・・・では、私の相手でもするか」
「え?お相手、ですか・・・?」
 
「一人で書物を読むには億劫なときもある。
私が教えお前が学べば、それはそれで私の理解もより深まろう」
「で、では、字を教えていただけないでしょうか?
・・・恥ずかしながら、私・・・あまり字が得意ではなく、育ててくださった長者様に何度も教えていただいたのに中々覚えられなくて・・・・」
「ならば指南して進ぜようか」
「・・・有難う御座います!!」
 
「あの、それと・・・」
「まだ何かあるのか?」
「あの、私は・・・何と貴方様をお呼びすればよいのでしょうか?」
「お前が顔を合わせるのは、私くらいだろう。
何と呼ぼうと・・・お前が此処で呼ぶのは私だけであろうから、何でもよい。」
「ですが、それではあまりにも・・・」
「つまらぬ、か?」
「そういうわけではないのですが、この世のあらゆるものには名があるのだ、と長者様が仰っていたので・・・。
私にも、本名こそ・・・忌み名こそ無いけれど、皆から呼んで貰えた、同じくらい大事な名前があるんです。
名前とは其のもののあり方をそのまま表すものだと・・・だから、大事なものだと。」
「大事なものであれば、それこそむやみやたらに呼ばぬほうがよいのでは無いか?
あの里の者の祖先たちがかつて信じ仰いだ神というのは、其の名をむやみに呼ぶなと諭したというが。」
「それは・・・」
「まあ良い。お前を困らせるつもりはない。だが、私は・・・正直、名などどうでも良いのだ。
しかしお前が困るのであれば・・・そうだな、お前に何か、いい名をつけてもらおうか。」
「私が、ですか?」
「私がお前を助けた恩人であるならば、その恩に報いるような、それなりに意味のある呼び名をつけてくれることだろうな。」
 
・・・そんなことを云われても・・・
私は、困惑をしてしまった。
この目の前にいる、自分よりも美しい男に、いきなり名前をつけろと云われても・・・
 
「思い浮かばぬか。ならば、」
「い・・・いえ、兄様!!」
 
その男は少しだけ、拍子抜けしたような表情を見せた。
 
「私が、お前の兄、と?」
「え・・・あ・・・・」
「散々に名前について語っておきながら、お前は・・・」
 
心底から呆れたように、低く凛とした声で私を窘めるように仰るものだから、 
・・・私は恥ずかしくなったのもあり、とっさに兄と呼んでしまったことに、剥きになって言い訳をしてしまっていた。
 
「わ、私には・・・それこそ、育てていただいた長者様という家族が居りましたが、
父も母も兄弟もおりません。
いえ、厳密には・・・長者様の家で共に育った弟や妹と呼ぶべき存在はおりましたが、皆・・・村に残っていますし、
中には私よりも先に流行り病で亡くなったものもいます。
ですが、それでも・・・私にとっては家族は大事なものなんです。
孤児だった私をここまで育て上げ、慈しんでくれた長者様や・・・里に残してきた子らは家族に等しいもので。」
「ほう。」
「ですが、私には兄や姉と呼べる存在はおりませんでした。長者様が拾ってくださったのは私が最初だったから。
いつも私が一番上の姉として弟や妹の面倒を見てまいりました。
ですから・・・自分よりも年上で、父とも母とも言いがたい存在で、私を助けてくれた存在で、名前も教えてもらえなくて・・・
それで・・・とっさに・・・・・・」
「年長者であるから、本当の名を知らぬ私を兄と呼んだか。」
「・・・・」
「まあ良い。
・・・ならばお前の気の済むまで、私を兄と呼べばいい。
私を兄と呼ぶのはお前が初めてだが、お前が声にするその響きを好まぬわけではない。」
 
言葉の終わりの声色が、先ほどのように柔らかさの混じったものになっていた。
 
 
 
 
それからというもの、私は字を教えていただいた後は・・・
書物の読み書きだけではなく歌のようなものの詠唱、舞の稽古、若干の剣術も飽きぬようにと加わり、
屋敷の中だけではあったものの、『兄様』に付き従う範囲も広がっていった。
 
また、あるとき、
 
「兄様、袴の一文字が・・・・」
 
身につけられている袴の帯の形が崩れているのを見つけ、以前弟達の袴を直したときの様に兄様の帯を直したことがあった。
兄様は一瞬驚いたような顔をされたけれど、直ぐに表情を少しだけ緩めて・・・私に任せてくださった。
・・・それ以降、私は兄様の身支度を手伝うことが多くなったような気がする。
櫛を持って兄様の黒く長い絹糸のような髪を梳いてみたりすることもあった。
身の回りのお世話、というかたちで、当初しようとして出来なかった『恩返し』も出来ているのかもしれない。
・・・それはそれで、どこか嬉しかった。
 
時たま外出をされるとき以外は、私は殆ど兄様と共に居て、
手習いや日々の生活を共に過ごしていた。
食事も気付けば広間に2人分が用意され、衣類も気付けば綺麗に畳まれたものが私に宛がわれた部屋の隅の行李に入っていた。
湯殿も常に温かく、一体どなたが何時用意をされているのだろうかと不思議に思うくらいだった。
 
 
 
そのような日々を過ごしていれば・・・自ずと・・・
私の内に、最初に兄様と出会った時に抱いた畏怖とも、
初めて兄様と呼んでしまったときの恥ずかしさとも、
一緒に手習いをするときや何気ない日々を過ごすときの穏やかなものとも違う・・・
どこか切なくて、いとおしくて、けれども苦しくて、温かい、何か・・・
そういうものが、自分の中に満ちてくるのが感じられて。
 
兄様の身支度を手伝いながら、
兄様の御髪を梳きながら、
 
兄様と手習いをしながら、
兄様に稽古をつけてもらいながら、
 
兄様と庭の木々を眺めながら、
兄様に私の思い出をお話しながら、
 
兄様の深い搗色の瞳を綺麗だなと思いながら、
兄様のお考えをその瞳の奥から読み取ろうとしながら、
 
兄様の柔らかな声色に心を震わされながら、
兄様の凛とした声色に心を揺さぶられながら、
 
・・・今まで、その時その時に感じていたものとは違う、抱きしめたくなるような、そんな気持ちが。
 
 
 
けれど、私は・・・
そんな思いを抱いてはならないことを理解してもいる。
 
あくまでも生贄として捧げられ、縁あって助けられた身。
このような屋敷の主であれば、それなりに名の知れた家の人であろうから・・・自分にはとてもそぐわない方。
元々孤児であった私とは、おそらく天と地ほどの差もあるはず。
今はどんなご縁かわからないけれど、ほとぼりが醒めるまでかくまって下さっているだけで、いずれは出て行かねばならない。
それが私の定め、とでもいうべきだろう。
 
想いを抱ける喜びを味わう事は許されず、
其れを断ち切らねばならない苦しみしか私には恐らく与えられていないはず。
 
だから・・・私は断ち切る方法を必死に探していた。
いつかは、『あれでよかったのだ』と言えるはず、そう自分に言い聞かせながら。
 
・・・そして、私は心に決めた。
 
『・・・此処を、出て行こう。』
 
 
 
 
或る月の無い夜、私は闇に紛れてこの屋敷から出て行こうと決心して、
そっと自分に宛がわれていた部屋を抜け出した。
足音一つ立てぬように、衣擦れの音一つ出さぬように・・・抜け出した、つもりだった。
しかし・・・
 
「・・・何処へ行こうというのだ?」
 
ようやく見えた門の手前で、
・・・一番いて欲しくない、けれども一番傍にいたいと願ってしまいそうになる、其の人が。
門と私の間に微動だにせず、ただ其処に立っていらっしゃった。
 
だが、もう、今を逃したら私は・・・
恐らく全力で跳ね除ければ、またはするりと抜けるように駆け抜ければ・・・・
 
「無駄だ。お前は此処から先へ出られぬ。」
「そんなのやってみなければ」
「同じことを言わせるな。お前は此処から先へ出られぬ・・・いや、出さぬ。」
 
「お許しください!!」
 
私は兄様を突き飛ばしてでも、その門をくぐろうとした。
けれど・・・
 
「何故私の言う事が聞けぬ!!」
 
私の手をぐっと引っ張り、初めて声を荒げた兄様・・・・
気付けば、私の体は兄様の懐に仕舞われる様に包まれていて・・・
 
一瞬でも、夢のようだ・・・と思ってしまった。
このまま時が止まってしまっても構わない、いっそ止まってくれれば・・・と。
 
そうしたら、逃げることも無く、苦しむことも無く・・・せめて心は幸せなままに・・・・
 
 
 
けれども、
 
『此処から出ようとなど二度と思わぬようにしてやる』
 
その瞬間、私の心を駆け抜けたのは・・・畏怖とも恋慕とも違う、恐怖だった。
初めて感情を露わにされた兄様は、荒ぶる嵐のようで。
その恐怖に中てられたかのように、私は声を発することが出来ず。
 
ご自分の部屋まで私を半ば引きずるように連れて行くと、
兄様は襖を荒々しく開け、私を部屋の・・・恐らくは先ほどまで横になられていただろう寝具の上に放り投げ、
と同時に後ろ手で乱暴に襖を閉められた。
何が起きているのか中々理解できなかった、いや、理解したくなかった私が漸く身を起こそうとしたとき、
兄様の手が私の肩を押さえ、再び私を横たえさせた。
半ば私に馬乗りになった兄様にしっかりと組み敷かれる形となり、縫い付けられたように身動きがとれない・・・
 
「に・・・兄様・・・何を・・・?」
「お前は此処から出さぬ。お前は何処にもやらぬ。誰にも渡さぬ。
・・・お前は私のものだ。」
 
兄様の片手が、私の胸元に伸びて、一気に衿を引かれ、
 
「・・・おやめください兄さ・・・!!」
 
 
 
 
屋敷の外へ逃げ出す気力も失せ、私はぼうっと縁側に座っていることが多くなった。
そのような私に、兄様も手習いを強いることも無かった。
常ならば、恋慕の情を抱いた相手と共に在ることは、この上なく幸せなことなのだろう。
だが・・・私は・・・・
 
 
あの夜、
感じたのは他でもない恐怖で、
覚えたのは身を割られ裂かれるような哀しみと痛みで、
残ったのは今までの自分ではない、得体の知れない・・・何か。
 
兄様が私を包むように、離さぬように、逃さぬように、
華奢に見えて力強い腕で私を抱きながら眠っている間も、
 私は自分の眼を閉じることが出来ず、兄様の肩越しに・・・
そっと白んでいく外の様子を、障子明かりを通して感じていた。
 
悪い夢であったなら、どれだけいいだろうか、
いや、悪い夢であってほしい、
 
・・・そう願っても、私の身体に兄様によって散らされた桜の花弁のような痕は、
それが夢ではないことを無情にも私に突きつける。
 
まるで、あの『御神託』のときのよう。
あの時は、花弁が肌に吸い付いたかのように張り付いて落ちることがなく、
私も心のどこかで、その御神託を受け入れていは、いた。
けれど今のこの有様は・・・それとは異質のもの。
 
 
 
それでも少しずつ、時を経ることにより・・・
まるで何事も無かったかのように現実を受け止められるようになってきて、
再び手習いを受けるようにもなった。
兄様の身支度や身の回りのお世話もするようにもなった。
 
そして・・・
あの夜からずっと、私は兄様の腕の中で夜を明かすようになった。
毎夜毎夜、咲き誇っては散り消え行く、桜の花弁を虚しく身に纏いながら。
 
兄様を、
いとおしいと思いながらも、
心からお慕いしながらも、
 
兄様に求められているというのに・・・何故、こんなにも虚しくて、哀しいのだろう・・・?
 
 
  
 
半ば兄様に妻妾の如く付き従うようになってから1年が過ぎ、桜の咲き始める季節になった。
兄様の身支度をしているとき、私は・・・ふと、1年前に自分の身に起きたことを思い出していた。
そう、あの年は春が中々来なくて・・・御神託にしたがって、私は生贄とされたのだ。
 
・・・あの里に、あれから春は来たのだろうか。
・・・今年は、遅れることなく春は来ているのだろうか。
 
「如何した?」
「いえ・・・」
 
「・・・お前がここに来てから、もう1年が経つのだな。」
 
兄様はふと、感慨深そうに仰ると、私にとんでもないことを仰った。
 
「一度、共に屋敷の外に出てみるか」
 
 
 
兄様に手をそっと引かれ、恐る恐る屋敷の外に出ると・・・私は驚きを隠せなかった。
一歩門を出た其処は、私の良く知る、懐かしい場所だった。
 
「此処は・・・」
 
そして、向こうから人影が近づいてくる。
やがてはっきりとこの眼に、その形が映った。
それは懐かしくて、いとおしくて・・・。
 
「・・・長者様!!」
 
けれど、私の声は長者様には届かず。
私の横を通り過ぎた長者様は、ある場所で足を止められた。
・・・そこは、ご神木の根元・・・私が生贄として閉じ込められた場所。
今も大岩でふさがれている。
・・・兄様は、まさか、この大岩を退けて私を助け出し、そして再び元に戻したというのか??
 
「・・・長者様、私です!!ルキアです!!・・・長者様!!」
 
けれど、
大岩の前で座り、御神饌を供え、祈りを捧げているだろう長者様に、私の声が届く事は無かった。
 
「お前の姿は、やはり見えていないようだな。」
「どういうことなのですか?何故長者様には私の声が・・・
まさか・・・・」
 
 
私は、気付いてしまった。
そう、1年前・・・自分に起きたこと、あれは間違い無く真実で、
そして私は・・・やはり・・・。
 
長者様がお帰りになる後姿を、黙って目で追っていた。
追うことしかできなかった。
もはや、私には・・・何かを伝える口がないのだから。
 
桜の生贄となったということの事実を、こんな形で思い知らされるなんて・・・。
 
 
 
そのとき、後ろから・・・そっと兄様に抱きかかえられるように支えられ、包まれた。
そこには春の風のような暖かさと、風に舞い散る桜の花弁のような切なさがあって、
・・・確か、以前・・・同じような感覚を・・・・。
 
「私は、お前に『助けてなどいない』と言ったことがあるな。」
「・・・ええ。」
「今なら、私が何故そのようにお前に言ったのか、理解出来るだろうか。」
「どういう、ことなのですか・・・」
「・・・こういうことだ。」
 
・・・兄様は、ひらひらと落ちてきた花弁を一つ其の手に取ると、私の手のひらに載せた。
すると、たちまち花弁は吸い付いたように手から離れなくなった。
 
「・・・!」
「・・・思い出したか?」
 
・・・そう、今私を抱きかかえている兄様こそが、私を贄として所望した・・・
つまり、私を助けた存在ではなく、其の逆で・・・
 
「・・・お前の体はとっくに果て、私の寄り依である神木の桜の糧となっておる。
そう、お前は私の側の存在となったのだ・・・そして、お前は私からはなれることは出来ぬ。
・・・仮に離れることが出来たとしても、離しはせぬが。」
「兄様・・・あなたが・・・・」
 
 
 
今まで1年間、私が屋敷から出られなかったのは・・・私を人から、そうでない存在にするため。
長者様が供養のためにと毎日持ってくる、神に対して捧げられた食物・・・御神饌を口にさせるために、
料理は作らなくとも良い、と言ったのだという。
人としてでない無い立ち振る舞いを身に付けさせるために手習いをし、
いずれ私も神託を授けるときが来るだろうと考え歌のようなもの・・・神が人へ与える祝詞を学ばせ、
そして人では持つことの無い力を与え、また自分から離れられぬようにと交わりを強いたのだという。
 
その間、人としての体は果て、本当に桜の神木への贄となっていた。
決して人として弔われることもなく、人としてその命を終えることも出来ないけれども・・・。
 
 
 
 
「・・・何故、私だったのですか?」
「お前以外の里のもののほうが良かったか?
お前は、生きていたかったか・・・?」
「・・・・」
 
「仮に、お前が生贄になることを望まなかったとしても、
私は、お前以外に選ぶつもりなど毛頭なかった。
もっとも、あのことが無かったならば・・・私は、春を遅らせてお前を生贄に所望することも無かったのだが。」
「え・・・?」
 
「お前は、よくこの場所に幼い頃から一人で遊びに来ることがあっただろう。」
「ええ、この祠は静かで、里の子どもたちもあまり来ないし、一人でいたい時にいい場所だなっておもったものですから。」
「お前が初めて私の前に現れたのは・・・そう、あれはお前が雨宿りの場所を探して、
この神木の・・・今まさにお前が眠っている場所で小さく丸くなっていたときだった。
小さなお前が濡れぬように、雨が入り込まぬようにと、私の懐で・・・丸くなったお前を包んだものだ。」
 
それ以来、一人になれる隠れ場所として、私は・・・何かがあると、この桜のうろで一人になり、
自分の想いをめぐらせることが多くなった。
兄様は、そのような私をずっとみていてくださったのだ。
 
「そして、私は・・・年を経ることに育ちゆくお前に、ただ見守るだけではなく・・・
それ以上の想いを抱いていることに気付いてしまった。」
「もっと里には器量の良い者が居るはずなのに。」
「器量の良し悪しだけではない。
お前の心根も・・・私はずっと、この懐にお前を抱きながら感じてきたのだから。
もっとも、器量といえば・・・お前が自分で思っているよりも、お前は多くの者からその実、見初められてはいたのだが。」
「私が、ですか?」
 
私は全く知らなかったし気付きもしなかったのだが・・・兄様曰く言い寄るものも多かったようで、
中には掻っ攫ってしまおうと考える邪なものも多かったのだという。
其の辺りは、兄様のお力で・・・色々とあったらしいのだが、其れはともかく。
 
「それでも、お前が年頃になり、相思となった者が現れたのであれば・・・
それを引き裂くような真似をせずに行く末を見守るつもりだった。
何故ならば私は人では無い存在であり、お前はこの世に生ける存在。この世に存在しながらも、住むべき世界が異なるのだから。」
「・・・・」
「しかし、いよいよ私にも・・・けして耐えられぬことが起きた。」
「え?」
「お前の、あの縁談だ。」
 
・・・あの、山向こうの御家への嫁入りの話。
長者様をはじめ周囲の者は大層喜んだし、事実喜ばしいことではあったのだけれども、私にとってはそれは・・・
必ずしも喜ぶべきものではなかった。
 
「お前は、私の懐で・・・泣いていたな。」
「ええ・・・。」
「お前が望んで山向こうへ嫁ぐのであれば、私もお前に幸あらんことを、と思いながら
お前をそっと見守り、送り出すつもりであった。
だがお前は・・・誰にも本心を告げられず、私の懐で泣いていた。」
「・・・・」
「お前の本心を知るのは、私のみ。
そう思えば思うほど、私は・・・本来であれば心にしまっておこうとしていた想いを抑えることができなくなり・・・
しかし、生きる世界の違うお前を直接に守ってやれる方法が無かった。
・・・動物を寄り依にでもしていたのであれば、人の姿に化け、お前を連れ去ることもできたやもしれぬが。」
「・・・・」
「次第に、私は・・・お前を救ってやりたい、助けてやりたいという思いよりも、お前を手に入れたい、という思いのほうが
強くなっていたことに気付いた。
お前が幼い頃より見守り、お前を誰よりも早く見初め、お前の心根を誰よりも知るのは、この私だと。
この私以外の者に、お前を渡したくなどない、と。」
 
そして・・・冬を長引かせ・・・私に生贄としての白羽の矢を立てたのだという。
兄様の目論見どおり、泣く泣く縁談は破棄され、当初嫁入りの際に袖を通すはずだった衣装に身を包んで、
祠の後の神木の下に放り込まれて穴をふさがれ、そこで眠りながら私はその命を終えてはいる。
その後、私の魂を拾い上げた『兄様』が自分の元へ導き、私が自分の死に対して、そして兄様の正体について恐れぬようにと・・・
屋敷に拾われて助けられたのだと錯覚させ、神として此れから共に在るために必要なものを与えていったのだという。
 
「お前は、人としてせめてその生涯を終えたかったかもしれないが・・・それは許さぬ。
何故ならお前は私への生贄であり、またそうまでして手に入れたいと願った、」
「兄様、
・・・私の話を、聞いてくださいますか?私の思い出を前にお話したときのように。」
 
そう、
私もまた、兄様の仰るとおり・・・
断りきれない縁談に心を痛め、この桜の木の、私が最後を迎えたあのうろでずっと泣いていた。
だからこそ、縁談を受け入れて生きるよりも、いっそのこと生贄となって・・・という思いもあった。
この里で生きて、この里で死んでいけたなら・・・と。
結局長者様にも、その胸の内を話す事は無かったわけだけれども。
 
そして、気付けば自分は・・・ずっとずっと幼い頃から見守られ、やがて想われて。
方法は犠牲を伴うものだったけれども、実はずっと心遣いに包まれていて。
私を手放すまいと、誰よりも想いを実は私にぶつけていて。
 
・・・人である私と、人ではない兄様。
その境界を取り払おうとした結果が、1年前のあの出来事だったのだ。
 
 
私は・・・驚きと共に・・・
ずっと感じていた恋慕の情を、この『兄様』に持ち続けていて良いのだと理解した。
辛かったあの時の・・・『兄様』に無理に強いられたときも、
只の戒めや私を辱めるつもりではなくて、本当に手放すまいと思ったが故のことだったのだと。
 
・・・私は、やはり・・・兄様に、『助けられたのだ』と。
 
 
 
「ルキア、お前は・・・私が、怖いか?
お前を無理に贄として欲し、其の命を奪い、離れられぬように繋ぎとめた・・・」
「いえ・・・・」
「そうか。」 
 
「ですが、兄様・・・
私はあの・・・逃げ出そうとした後のこと・・・本当に怖くて、やるせなくて仕方なかったのです。
何故あのような無体な事をなさるのか、と・・・。」
「・・・すまぬ。」
「ですから、もう二度とあのような、」
「無論だ。
だが、言われずとも・・・する必要がなかろう?
お前は私の傍から離れも逃げもせぬ、違うか?」
 
 
そう仰りながら私を包む兄様の懐の中で、私は一瞬だけではない、何か、を感じていた。
それは『夢のよう』という言葉では表しきれないくらいの・・・・