「紅い桜」
ある日の職務中、利吉が届けてくれた六番隊からの文。
其の文に捺された椿の花を模した隊章を見た時、
不意に、ちりり・・・と胸元に痛みが走った。
一瞬だけ顔をしかめこそしたけれど、
誰にもその様を見られぬようにと周囲を見渡し、
また気付かれぬようにと己の息を整え、
雨乾堂へ届けるため、歩を進めた。
先程の痛み・・・
改めて、書簡に押された六番隊の紅い隊章を見つめてみる。
『・・・兄・・・様・・・』
昨夜、夕餉の席で兄様は珍しく御酒を多く口にされていた。
何かつまらぬことや、お気に障ることがあったのだろうかと思ったが、
私はそれを口には出来ぬまま黙々と箸を進めていた。
「如何した?」
「え?」
「・・・私では、詰まらぬか?」
兄様は杯を手にしたまま、私をじっと見つめられた。
「いえ・・・特に私は何も・・・」
「ならば、」
此処へ、と・・・兄様に示され、言いつけの通りに兄様のお傍に。
それから、御酒の並々と注がれた杯を差し出された。
「兄様・・・?」
「私の杯では飲めぬのか?」
やむなく、杯を受け取ろうとする。
が、兄様は杯を離そうとされない。
寧ろ、強く兄様の御手で杯を押し付けようとされて。
「あ、あの・・・兄様・・・?」
「私の手からは飲めぬのか?」
「い、いえ・・・ですが、」
「ならばその手を退けよ。」
この兄に逆らう事は不可能に近い。
やむなく私は、杯に添えた自分の手を離す。
乱暴に、兄様の手の中の杯は私の唇に押し付けられ、
中の御酒を流し込むように飲ませようと傾けられた。
けれども、兄様が飲ませようとする速さと、私が飲もうとする速さが合わなかったためか、
咽る事は無かったけれど、上手く飲み込めなかった御酒が溢れ、口の端から垂れていく。
・・・私は只苦しくて・・・きゅっと目を瞑り、必死に耐えていた。
・・・其の様子をご覧になられた兄様は眉を潜められた。
少なくとも私に落ち度は無いはず。
けれども・・・
其の場を取り繕うために、と自分に言い聞かせ、私はとりあえず兄様にお詫びを申し上げねば、と思った・・・が、
「幼子ゆえに、溢したか?・・・さて、何処に溢したのやら。」
流石に、私にも限度というものがある。
確かにこの家に置いてもらってはいるものの、私は別に兄様に隷属しているわけでもなく、ましてや所有物でもない。
そして、私はこの方の『義妹』であって、三つ指をついて仕えねばならない妻妾でもない。
・・・だから、先ほどからの仕打ちに流石に耐えかねて、つい、
「わ、私は幼子などではありません!!
それ故兄様も私に御酒をお勧めになられたのではないですか?
大体、先ほどから一体何なのですか?何が面白く無くてこのような」
「・・・私に口ごたえをするか?」
ひいやりと響く兄様の声に、私はそれ以上口を開くことが出来なかった。
そう、此の方の一言は、全てを制圧するだけの力があるのだ。
只一人抗ってみても、無駄なこと・・・ずっと今までも思い知ってきたはず。
口をつぐんだまま、視線を落とし顔を上げぬ私に苛立ちを覚えたのか・・・
私の顎に指をかけ、くいと上げさせ、尚も視線を合わせようとしない私の顔をじっと見つめられた。
次の瞬間には、空いていた兄様のもう片方の手が私の衿に掛かっていて、
力を込めて、乱暴に、ぐいと引かれていた。
驚きで目を見開いたときには、私の唇の端・・・先程御酒を溢した始点にそっと兄様の唇が触れ、
もう半分乾きかけていた御酒を吸い取るかのように唇は顎を伝い、首筋を伝い・・・
御酒の描いた甘く滑らかな道をなぞるように、下へと下りていく。
・・・そして、大きくひろげられた私の胸元へ。
「・・・っ」
甘く、ちりりと痛んだ後には、兄様が描いた紅い花弁。
「お前が溢した後を辿ってみれば・・・紅い花が咲いておった。」
「・・・これは、たった今兄様が」
「私が、何を?・・・また口ごたえをするか?」
そういうと兄様は、再び胸元に唇を落とされた。
何度かあの甘くも痛い口付けが肌に降り・・・
やがて、兄様は顔を上げられた。
「・・・我が隊の隊章のようだな。
此の花が咲く場所からすれば、さしずめ、限定霊印といったところだな。」
その声色は、先ほどと変わらぬ・・・ひいやりとしたもの。
けれども、どこか様子が・・・・
「しかし、我が隊の隊章は椿だが、此れは桜のようだ。
私を象る花、さて此れは・・・私の為の限定霊印だろうか。
そう、私の為の、私の印・・・・」
私の胸元を指で何度も愛でるようになぞる兄様の指。
何も言えぬまま、分からぬまま、私はぼうっと兄様を只見つめていた。
「この限定霊印を解除できるのは当局でも何者でもない、
お前にこの印を施した私だけだ。
・・・お前を意のままに抑え、また解き放つことができるのは・・・・」
ふと・・・急に、目からふるふると涙が溢れてきた。
はっとされたような、驚いたような顔を一瞬だけ見せられたものの、兄様は表情を隠されてしまった。
ただ、私の目をを拭ってくれる指は、先程顎に掛けられた指と同じものとは思えないくらいに優しくて。
「泣くな。」
「お見苦しくて申し訳御座いません、ですが・・・怖かったのです・・・。」
「見苦しくは無いが・・・」
兄様の声色が、先程とは打って変わって穏やかで宥めるようなものに変わっていて・・・
だから・・・
私は耐えられずに声を上げて泣き出し、
兄様はそっと私を包むように抱き寄せられたのだった。
文を浮竹隊長にお持ちしたところ、ちょっとその場で待つように、と言われ・・・
文を眺められている間、私はその場に控えていた。
やがて、隊長が呆れたようにため息をつくと、途方に暮れたような笑顔を私に向けた。
「朽木、お前も大変だな・・・。」
「え?」
「隊章の捺された文でよこすなんて、公私混同も甚だしいけれどな。
端的に言うと、白哉の奴、お前に・・・隊の他の男性隊士と話をさせるな、だとさ。」
「え???」
「昨日、此処に来た時に、朽木が他の隊士と話をしているのを見かけたらしいんだが、
それがどうも面白くなかったらしいぞ。
何か・・・飲み会の話もしていたのか?」
そういえば、新たに異動する隊士のための歓送迎会をするとかしないとかで、
幹事役の隊士から出欠確認があった。
そこでつい話が盛り上がり、廊下で立ち話こそしていた・・・のだが。
「歓送迎会の話、なら・・・
ですが、それは朽木の家の事情もあって、大変申し訳ないのですが欠席にさせて頂いて。」
「白哉、酒なら自分の家で市井では到底目に掛かるようなことなどない酒を飲ませるから、
歓送迎会等々の理由をつけて朽木に飲ませるなってさ。
・・・全く、何を考えているんだか・・・朽木は子どもじゃないのにな。
これじゃ只の親馬鹿ならぬ義兄馬鹿か、または只の悋気じゃないか。」
また、ちりり・・・と、胸元の紅い桜が疼く。
けれど、嫌な痛みではない。
昨日、不快なご様子だったのも、
詰まらぬのか、と私に訊かれたのも、
御酒を無理にでも飲ませようとしたのも、
そして無理やりにでも紅い桜を咲かせたのも、
その桜に似た六番隊の隊章を態々捺して、私の目にわざと触れるように届けさせたのも、
(利吉に届けさせれば、恐らくもっとも近しい私を探し出して渡してくれるようにと依頼するだろうことくらい、
兄様にもお見通しではあろうから。)
「・・・本当に、困った兄ですね・・・。」
昨日の一連の出来事がもしも・・・私に対する嫉妬なのだとしたら・・・
いや、そのような狎れ上がりは良くないのだけれど、
きっと其れは、少なくとも今、私を見ていてくれていることの表れ・・・。
だから、
そんな一面を見せてくれた兄様に、どうしようもなく・・・
直ぐにでもお会いしたくなってしまう。
・・・でないとこの紅い桜が、散り消えてしまいそうで。
兄様の眼差しが、私から別のところに向いてしまうのでは、と不安にもなって。
『兄様・・・この紅い桜の印で為された限定を解除できるのは・・・』