『幸福論、または絶望論』
私には、無い。
死神としての柵も無い。
虚圏で振り翳した畏怖も無い。
私の手足となったモノも無い。
私の手足を浚おうとするモノも無い。
永劫の時の中を闇に囲まれて過ごすことに対する哀しみも無い。
生けるものに等しく与えられるとされる死さえも無い。
私に唯一あるとすれば、
世に蔓延る柵に疑問を持ちながらも問わず、
其の身に及ぶ不条理をも是として疑いもせず、
盲目にこの世界の『楔』だという考えを捨てることもせず、
同じ歴史を繰り返すだろう彼らへの、失望のみ、といったところか。
いや、最早、絶望とでもいうべきか。
以前目にしたとある書物に、
永劫に悲しみ続けるため、自ら望んで糸杉に姿を変えられた者の話があった。
相変わらず進歩の無い、この世界に対してなのだが。
まあ、良いだろう。
私は二度と、愚かな彼らの顔も見る事は無いだろう。
愚かな彼らが作り出す、変わることの無い不条理の世界に出ることも無いだろう。
その不条理の世界が生み出すだろう柵に、無駄に縛られることも無いだろう。
そして、いずれは、
愚かな彼らの築いた世界と隔絶された私の世界からは、絶望さえも無くなることだろう。
・・・それが哀しみを内に残し糸杉と化した者と、私との違いだろうか。
果たしてどちらが、幸福なのだろうか。
君は、どう思うかい?
書いているうちに、藍染様が中二病っぽく感じるようになりました・・・。
(でもそんな私こそがきっと中二病・・・ですね。)
ちなみに、糸杉の花言葉は『絶望・死・哀悼』というネガティブすぎるものばかりです。